情報教養研究会 特別連載

国際協力・交流と私(7回シリーズ)

(No.2)私の国際交流事始め

元国際協力事業団国際協力総合研修所・国際協力専門員 植松卓史

 

<最終更新日 1999/5/5>


私の国際交流は74年のイラン・アルジェリア出張から始まりました。大学及び大学院修士課程で元々好きだった応用化学を学び、58年に東洋高圧(現在の三井化学)に入社、中央研究所で有機合成化学の研究に携わり乍らも何か私にはもっと自分に向いた違った世界があるのではないか(特に海外関係)という思いが常にありました。
カナダの技術移民制度にも興味を持ちカナダ大使館まで調べに行った事もありましたが寒さが苦手の私には、半年間は冬のカナダはとても無理でした。それでも折角あった出来て間も無い米国、ニューヨーク駐在員の話を断って、それ迄に関わってきた有機化学品の製造プロセス開発研究の仕上げとして、新天地の大阪にこのプロセスを使ったプラントを建設するという方を選らんだのはやはり技術屋だったせいなのでしょうか。これを始めにちょうど日本は高度成長時代だったので技術屋として色々な経験をする機会にめぐまれましたが先ほどの思いは依然消えませんでした。その内会社は三井グループの一員としてイランとの合弁の石油化学プラント建設と、同社の技術輸出に伴うアルジェリアの石油化学プラント建設という二つの大きな海外プロジェクトを開始し、私は日本でのそのサポート役に関わる事になりました。そんな関係で74年にイランとアルジェリアの現地を視察する機会に恵まれたのでした。然し初めての海外出張がイスラムの途上国であったのは私に非常なカルチュアショックを与えました。

羽田をパンナムの世界一周便で発って南回りで香港、バンコク、デリーを経由して17時間の飛行の後テヘラン空港に到着する時、明け方の空に浮かぶエルブルツ山脈の最高峰ダマヴァンド山(5671m)の美しい姿が印象的でした。イランも当時は未だイスラム革命前のパーレビ国王の統治下で、イスラムの戒律はずーと緩やかでしたが、街で見る女性は皆チャドールと呼ぶ布で頭から全身を覆い、夜は暗くなると皆店を閉め、辺り一面街灯も無く真っ暗で銀ブラと言う雰囲気は全く無く、郊外の丘は一木一草も生えていないごつごつした岩肌でまるで月世界か、モーゼが十戒を説いたシナイ山を偲ばせるようでした。プラントの建設現場はバンダールシャプールと言うイラン南西部のペルシャ湾に面した海辺で一年の内3ヶ月くらいは気温45~500C、湿度98%、車のボンネットの上で目玉焼きが焼けるという、イラン人ですら行きたがらない苛酷な土地でした。この辺り一帯のクーゼスタンと言う砂漠(土漠?)地域に石油油田が多数あり、地下から噴出する石油に混じって出てくる軽いガス類を分離して燃やす多数のグランドフレアーというのが轟々たる音と共に巨大な炎を吹き上げていました。海から海水を取って塩を作り、今無駄に燃やしているガスを使って塩ビ等の石油化学製品を作ろうという計画で、見渡す限りの広大な敷地といい、正に我々の親の時代に多くの人々が狭い日本を飛び出し、満・蒙の地の開発に夢を抱いた気持ちが分かるような気がしました。
と同時にこの土漠の真っ只中に土をこねて作っただけの家が多数あり人が住んでいるのを見た時は愕然としました。情報過多の時代にこのような映像は見たことはあったものの、現実に目の前に見せられるとそのショックは誠に大きなものでした。勿論電気も、水道も無く道路すらありません。 然し実際にはこの昼間はサウナ、夜は冷蔵庫のようになる苛酷な地に住む為には生活の知恵の結集の非常に快適な構造で、政府が煉瓦作りの家を与えても彼らは移住したがらないそうです。

また一方で紀元前6世紀頃にダリウス大王により建設されたペルセポリスの遺跡のスケールの壮大さと、楔型文字やレリーフの精緻さを見ると果たしてこの頃の日本の我々の祖先はどのような文化を持ち、どのような生活をしていたのだろうかとつい比較してしまいます。 イラン人が我々に向かって「イランは昔から高度に発達した文化を持っていた。 今はたまたま科学・工業技術で遅れているだけだ」とうそぶくのも無理はないと思いました。

南部の視察を終えた我々調査団は今度はテヘランから北へ向かい、エルブルツ山脈を越えてカスピ海へと向かいました。エルブルツ山脈はテヘランの北に屏風のように聳え、カスピ海から来る湿気を含んだ空気はこの山脈に遮られて南に下れません。 従って南から見るとエルブルツ山脈の頂上付近にはいつも雲がへばりついていてこの様子がよく分かります。 テヘランから峠を越えるまでは月世界のようだったのが、峠を越えますととたんに緑が豊富になり、家々も雪を落せるように傾斜のついた屋根を持つようになります。 このカスピ海で採れる蝶鮫の卵が有名なキャビアなのですが、残念ながら味音痴の私にはイクラの方がおいしいと感じたのは全くもったいないことです。 又キャビアの親ならさぞかしと思って蝶鮫の照焼きも食べて見ましたが全く口に合いませんでした。 カスピ海沿岸はイランの穀倉地帯です。 ここに当時東芝の工場があり、電気炊飯器の販売が年々、倍々で伸びていると聞き、イラン人はパンを主食にしているとばかり思っていた私は一寸意外な気持ちでした。
このようにイラン各地を視察している時面白かったのは、地方の空港で飛行機に乗る前にカメラを持っていると必ずセキュリティーの係官の前で自分に向かってシャッターを一回切らされる事でした。 どうもその頃はやっていた007の見過ぎで、シャッターを押すと何かレンズから飛び出すのではないかと疑っていたようです。

テヘランに帰った私は他の調査団員と分かれパリ経由でアルジェリアに向かいました。 此れ迄は三井系各社の10名からなる団体でしたが、これからは会社の友人と二人だけの旅です。 パリについた時はそれ迄のカルチュアショックから解き放され、何かやっと人間の住む世界に戻ってきたような感じがしました。

アルジェリアのサイトは地中海沿岸でなだらかな丘陵地帯にユーカリ、オレンジ、オリーブなどが風にそよぎ、その中をひつじ、牛が悠然と草をはみ、紺碧の地中海には真っ白な家々が映え、非常に牧歌的な、絵のような所でした。然しフランスとの激しい独立戦争を戦い抜いた後で人々の暮らしは日本の戦後に近い状態でした。 イランでたくさん貰った地図類を建設会社の人に見られ、「例えこの中にアルジェリアの地図が無くても、空港で見付かるとスパイと間違えられる恐れがあるから隠して置くように」と注意を受けびっくりしました。そうとは知らず首都のアルジェからサイトのスキクダに向かう飛行機の中からプラントサイトの写真を撮っていたのです。 若し見つかっていたらと冷や汗をかきました。 サイトにいた友人はただカメラを持って海岸を歩いていただけで憲兵に屯所に連れてゆかれたそうです。

ここでも緑豊かなのは地中海沿岸だけで、南のアトラス山脈を越えるとそこはサハラ砂漠でイランとはまた違う全くの砂の世界です。サハラ砂漠と言うと只砂があるだけじゃあないかという人もいましたが、その魅力は語り尽くせません。今回はこの話には触れる余裕はありませんが、一言、車を駆って砂漠の真っ只中に行き、エンジンを切るとそこはゼロ デシベルの無音の世界で、自分の心臓の鼓動が聞こえそうなくらいの所だと申し上げておきましょう。この砂漠の中のハシ・ルメルと言う所で出る天然ガスを配管で地中海まで持ってきて精製・液化しLNGとして輸出しています。 そしてイランと同じにその時に出る廃ガスを原料に石油化学製品を作るプラントを建設しようという事でした。 そしてその数年後、私は完成したプラントの技術援助の為そこに3年近く派遣される事になったのですが、勿論その時はそんな事とは毛頭知りませんでした。

これから建設するプラントの技術者になるアルジェリア人100人を研修の為50人づつを、半年づつ2回に分けて私のいた大阪の工場に受け入れ、私がその技術的管理責任に当たっていたので、スキクダに着くとまず研修生を日本に送り出していた責任者に会いに行きました。所が先方は「何しに来た」と言わんばかりの態度です。研修生が日本にいた間は我々も初めての経験ですし、結構彼らの中の部族争いなどもあって手を焼いた所もあり、彼も十分その事を知っていた筈です。 私もその後彼らがどうしているのか思い出話などしたかったのですが、彼にしてみれば「日本側は研修というサービスを提供し、それに対しアルジェリア側が対価を支払ったので全て終わってそれだけの関係だ。今更何しに来た」と言う事らしいのです。 私が「あの時のムッシュー◯◯は今どうしている」と聞いても「そんなことはおまえに関係ない」と取り付く島もありません。 しかもその時研修に来た人達の大部分が徴兵、転職、配置転換などでいなくなり、残っている人達もオフィスの個室に入ってしまい、秘書を通さないと会えないのです。折角日本で研修した現場の技術も個室に入ってしまっては余り活かす機会もないという事で全く日本と違う価値観、文化に戸惑いました。

アルジェリアにはたくさんのローマ遺跡が残され今更ローマの版図の大きさに感服します。 首都のアルジェから西に行った所の海岸にあるティパサと言う遺跡はとても奇麗な遺跡です。 そしていちじくの木の多い事に気がつき、泰西名画のアダムとイブが何故いちじくの葉を愛用したのか分かった気がしました。 此所の近くにある白亜の立派なホテルで昼食を摂ったら豪華な前菜、山盛りの地中海のエビ、柔らかい骨付のひつじの焼き肉を腹一杯食べて3人で5000円という安さにびっくりしました。 そして生憎イスラムの断食期間だった為、運転手は何も食べず、飲まずに一日中付き合ってくれました。 更に東の方の内陸に入った所にあるティムガッドと言う遺跡はアフリカ大陸一の大きな遺跡だそうです。 太く高い石柱が林立し、上下水道の完備した家々、広い半円形の劇場、ローマ風呂、そして広い道路を覆う固い石畳にはくっきりと轍が残り当時の繁栄振りがはっきりと判ります。 然しこの廃墟は土漠の真っ只中にあり、周りに木々は一本もありません。 いったいこの町の人達はどのように生活していたのだろうと思いましたら、元々は木に囲まれていたのですが、外敵が侵入し、周りの木を切り払ったので土漠となり滅亡したとのこと、なんとも気宇壮大な、気の永い戦争だったのだなと驚嘆しました。

すべてのスケジュールを終え、帰国の途に着いた私達2人は首都アルジェ、パリ経由でコペンハーゲンに出るべく、コンスタンチン空港で飛行機を待っていました。 所がいくら待っても出発のアナウンスが無いのです。 聞いてみると「予定の飛行機は一時間遅れる」と澄ました顔でいうのです。 それではアルジェでも、パリでも乗り継ぎが出来ずその日の内にコペンハーゲンには着けないではないですか。 国際空港とは言ってもコンスタンチン空港では英語は全く通じず、通訳の人にも帰ってもらった後だけに、つたないフランス語で必死に事情を訴えた所、「パリに直行する臨時便があるからそれに乗るか」というのでこれは渡りに船と喜んで搭乗手続きをしました。 所が飛行機に乗ろうとしても周りにそれらしい乗客が全く見えないのです。 たずねると何と当時は未だジャンボの747はなかったので、その頃では最大の727の大きな機体に乗客は我々2人との事、エール・フランスの奇麗なスチュアデス大勢に囲まれて、初の海外出張の最後を飾る大満足の大名旅行でした。

この出張を契機にそれからは会社で海外出張の多い生活となり、また78~81年にかけては前述のアルジェリアのサイトに勤務するという事もありました。しかし依然として何かもの足らず遂に84年に会社を飛び出し、出来たばかりのJICAの国際協力専門員に応募するという経過となりました。 入ったJICA専門員の生活は日本のODA予算も急成長している時代であり、私にとっては正に永年の夢であったような世界で、天職を得た思いでした。 昨年3月の退職を期に数えて見ましたら此れ迄に短期・長期派遣、調査出張、或いは私的観光などを含め会社時代から訪問した国・地域の数は56ともなりました。色々楽しかったり、苦しかったり、危険だった事もありましたがいずれも今になってみれば懐かしい思い出ばかりです。そしてそれらの全ての始まりが上記の出張からでした。


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